啓蒙の弁証法(4)I 啓蒙の概念 二

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

言葉=象形文字=模像→神話←反復する自然=象徴的なものの革新=象徴の具現として繰り返し生起する=永遠

  • 記号としての言葉は学問に近づく
  • 形象としての本来の言葉としての言葉は、さまざまな芸術の下に配分される

芸術と科学とを、ともに文化領域として引き離す対象化が通例となっているが、それは、両者に固有の傾向によって、ついにはまったく正反対のものとして両者を相互に入れ替わらせることになる。

  • 科学:唯美主義
  • 芸術:実証主義→世界の複製

この区別が何のためらいもなく晏如として再び実体化されるとすれば、二つの孤立した原理のおのおのは、真理の破壊へと突き進んでいく。

「再び実体化」とはどういう意味なのか。

芸術はまずそれが役に立つものであることを証明しなければならない。」模像(Nachahmung)をつくることは(中略)市民権を剥奪された。

つまり、芸術に価値は見出されていない、ということ?

芸術=実証主義=無価値?

でも、

シェリングの(中略)芸術への信頼

なの?

信仰とは欠如的な概念である。

で??
これまでの流れからすると、信仰はここでは「神話」に近い概念として扱ってよいのか?

普遍的諸概念が支配の徴しであることに変りはない。科学の演繹的な形式さえ、社会的階層秩序と強制的圧力とを反映している。

とくれば、、、、あれ?

思考形式のこういった社会的性格は、デュルケームの教えるような社会的連帯の表現ではなくて

そうなの??

社会と支配との測りがたい統一の証拠である。

「統一の証拠」ってだから、何がデュルケームと違うわけ?

分業→各主体が全体の合理性を追求する行動をとるようになる?

戒律の遵守=限定された否定

啓蒙は、およそいかなる体系にも劣らず全体的

よく考え抜かれた数学化された世界と、真理とが同一化されることを先取りして、啓蒙は神話的なものの復帰の前にも安穏としていられる。啓蒙は思考と数学とを同一視する。それによって数学は、いわば解放され、絶対的審級に祭り上げられる。

ここでいう数学はアインシュタイン物理屋さんがいう「エレガントな」ものであって、集合知などの文脈で言うところの「多数決」とは違うのだろうな、と。あたりまえか、、、、

数学的方法は、思考を事物(ザッヘ)にし、また自らそう名付けるとおり、思考を道具にしてしまう。

啓蒙された世界では、神話は世俗的領域に入り込んでいく。

事物に心を吹き込む役目
かつて:アミニズム
現在:産業主義

うーん、二はほんとうに難解。いやぁ、、、、わからないっす。