啓蒙の弁証法(3)I 啓蒙の概念 一

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

とにかく、この本は「啓蒙」に関する定義が主題だと思われるので、「啓蒙」とはなんぞや、ということを読み取ることを目的として読み進めていきたい。
ま、そもそも主題を読み違えているのであれば、仕方がないわけであるが、、、

一 P23〜45


啓蒙が追求してきた目標
=進歩的思想
=人間から恐怖を除き、人間を支配者の地位につけるということ
=世界を呪術から開放すること
→この部分の脚注

マックス・ウェーバーが「合理化」の過程として世界史を捕らえた定石を踏まえている

そういわれると、一連の議論は少しばかりすっきりして読み込めそう、、、
=神話を解体し、知識によって空想の権威を失墜させること
→なにせ次の章で『オデュッセイア』が出てくるのだから、神話というのは重要なキーワード

ここでフランシス・ベーコン登場

啓蒙が追求してきた目標
≠伝統を墨守する世の大家

彼が志した人間悟性と諸事物の本性との幸福な結婚は家父長的である

いきなり出てきた「人間悟性」これ、なんだ??
「家父長的」っていうことは、支配者/被支配者関係があるということだが、自身について悟りをひらいた人間は諸事物=自然を支配する(出来る)ということなのか??

力である知は、被造物の奴隷化においても、世の支配者たちへの従順さにおいても、制限を知らない。

ということは「自身について悟りをひらいた人間は諸事物=自然を支配する(出来る)」という解釈は的をはずしていないと思われる。

技術は(中略)デモクラティックである。技術こそこの知識の本質である

この知識(=技術)が目指すのは(中略)方法であり、他人の労働の利用であり、資本である。

人間が自然から学ぼうとするのは、ただ自然と人間とを完全に支配するために自然を利用することである。それ以外には何も問題にならない。自分自身がどうなろうとかまわずに、啓蒙は、それ自身の自己意識の最後の残滓まで焼き尽くしてしまった。こういう自己自身に暴力を振るう思考だけが、さまざまの神話を破壊するに足る鞏固さを持つ。

力は認識と同義である

  • 啓蒙=自然と人間とを支配するための力=知=認識
  • 啓蒙=それ自身退行への萌芽を含む(フラジャイル?)=でもそれだけに神話を破壊することが可能なだけの力を持つ?

重要なのは、人間によって真理と呼ばれる満足感ではなく、「操作」であり、役に立つ動きである。「もっともらしくて面白く、りっぱでためになるお話や、。何か明晰な論証といったものではなく、生活面での設備や便宜を改善するための活動や労働、これまで知られていなかった個々のものの発見のうちに」「学問の真の目的と職務」がある。

えっ?序文実用主義を否定していなかったっけ??

世界の呪術からの解放とは、アニミズムの根絶である。クセノパネースは、大勢の神々というものを嘲笑している。

神話=世界の呪術=アニミズム

家父長的=神話における神々の人間に対する支配

啓蒙=プラトンアリストテレス形而上学の遺産のうちに古い諸力を再認
=普遍概念の真理性の要求を迷信として指弾

計算可能性や有用性という基準に適応しようとしないものは、啓蒙にとっては疑わしいものとみなされる。

わかった。啓蒙が神話とかそういう非合理的なものを否定するものだというのはわかったが、でも有用性とか計算可能性とか、、なんども書きますが、序文実用主義を否定していたのと矛盾してないか???

神々と質との破壊が、一貫して主張されている。

うーん、質的な分析ってさまざまな研究の場で、もしくは実務の場でされているんですけど、、、、これって啓蒙された人間が行っちゃいけないものなのでしょうか、、、????

神話とは、報告し、名づけ、起源を言おうとするものであった。しかしそれとともに神話は、叙述し、確認し、説明を与えようとした。(中略)早くから神話は報告から教説になった。(中略)儀礼の持つこういう理論的要素は、諸民族のごく初期の叙事詩のうちで独立した。

つまり弁証法的思考においては、どんなものもいつもただ、それだけではないものになることによって、それであるところのものとなるのである。

まったくもって理解不能トートロジーかと思えど、そうではないような、、、、、

人間が恐怖から免れていると思えるのは、もはや未知のいかなるものも存在しないと思うときである。これが非神話化ないし啓蒙の進む道を規定している。

しかし、「未知のいかなるものも存在しない」、そんな状態が現れるわけないではないか。ここで啓蒙がいきなり非現実的な状態を指していることになってしまったぞ、、、