啓蒙の弁証法(2)序文

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

啓蒙の弁証法―哲学的断想 (岩波文庫)

とりあえず序文を読んでのメモ。

社会における自由が啓蒙的思想と不可分のものである

啓蒙的思想というその概念のうちに退行への萌芽を含んでいる

つまり「啓蒙の自己崩壊」
それが

「自然への頽落」(Naturverfallenheit)」

学問的伝統<>実証主義
思想:矛盾を止揚するという本性 <> 盲目的に実用主義化していく
実証主義実用主義というpracticalものを啓蒙の反対概念として扱っているのか?

啓蒙が神話へと逆行していく原因は

→神話は啓蒙の退化した先のものなのか?でも、このようにも書かれている。

神話はつねにあいまいであるとともに明瞭であった。元来神話は、誰にも親しみ深く、概念の作業を人から免除することを持って身上としてきたのである。

???

ここはわかりやすい。

真理とは、つまりはたんなる理性的意識ではなく、その現実における形態にほかならない

で、この著作の構成が紹介される。

第一論文[I 啓蒙の概念]は、後に続く論文の理論的基礎をなすものであって、合理性と社会的現実との絡み合い、またそれと不可分の自然と自然支配との絡み合いを、立ち入って解明しようとするものである。その際に啓蒙に加えられる批判は、これまで盲目的支配に巻き込まれていた状態から啓蒙を開放することのできる、啓蒙についてのある積極的概念を準備するはずである。

ここでいう「合理性」って、先に出た実用主義とか実証主義と同義として捕らえてよいのか?

大まかに言えば、第一論文の批判的部分は次の二つのテーゼに要約されよう。
(1)すでに神話が啓蒙である。
(2)啓蒙は神話に退化する。

これってトートロジーじゃね?

第一補論[II オデュッセウスあるいは神話と啓蒙]は、市民的西欧文明の初期の代表的証言のひとつである『オデュッセイア』に即して神話と啓蒙の弁証法を追及している。中心に立っているのは犠牲と諦めの概念であって、それを手がかりにして神話的自然と啓蒙された自然支配との差別と統一が浮き彫りにされる。

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア〈上〉 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア〈下〉 (岩波文庫)

ホメロス オデュッセイア〈下〉 (岩波文庫)

啓蒙された自然支配→退行→神話的自然

  • 「自然支配」と「自然」というのはどう違うのか
  • 「自然支配」=「自然的なものによる支配」?

第二補論[III ジュリエットあるいは啓蒙と道徳]は、カント、サドにニーチェという啓蒙の仮借ない完成者たちを取り扱う。

啓蒙の完成者=カント、サド、ニーチェ
なのか、、、、

あらゆる自然的なものを自己支配的主体の下へ隷属させることが、いかにしてついにはほかならぬ盲目の客体的なもの、自然的なものによる支配において極まれるかが示される。

自然的なものによる支配の浸透→自然的なものを自己支配的主体の下に隷属させる
人間は「自然的なもの」に支配されているのか、それとも隷属させているのか