ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る 第一章『想像の共同体』を振り返る(講義一日目)

難解な『啓蒙の弁証法』、読んでいて辛くなる(これについては下巻まで読み通してからエントリを起こすつもりだが)『オデュッセイア』に延々取組んでいるうち、ちょっと一休みしたくなって手に取った本が岩波文庫じゃなくて光文社新書であるこれ。

ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書)

ベネディクト・アンダーソン グローバリゼーションを語る (光文社新書)

えっ? さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学 (光文社新書)光文社文庫?? という内容。『想像の共同体』のベネディクト・アンダーソンの講演録がなぜか光文社新書から出ている。岩波でも中公でも、ましてや講談社現代新書でもなく光文社新書から。いやはや。しかし、こういう本が世に出ているというのは、新書ブームってなんだかんだ、世の中に貢献している気が、、
あ、でも光文社新書「ニート」って言うな! (光文社新書)も出しているわけで、、、

さて、先にお断りしておくと私はまだ『想像の共同体』は読んでいない。実は昨年某田舎のブックオフで初版(つまり追補された章がないバージョン)を100円で買ったのだが、修士論文研究にかまけて読んでいなかった。修論が終わっても、先に図書館で借りてきたものと輪読会課題を優先して読んだので、まだ手がつけられていない。そんな人が、、、といっても、それなりに理解できるように書かれているところが新書のいいところ。

あ、それから、私は学部は国際政治学科で、しかも安全保障周り(個人じゃなくて「国家」のですよ。学部はSFCではないので)のゼミに所属していたということも前置きしておきます。ちなみに出身大学はミッションスクールのくせに比較的右寄りの教育をするという不思議な所(当時は右寄りといわれていたんだけど、今となっては世の中がミーハーに右に偏りすぎているから、「リアリズム」ベースにした、といっておいた方が良いのかもしれない。)

というところもあり、この手の話題は最も強く関心を持っているジャンルではあるのです。

さて、内容に入っていきます。
これまで同様、このブログは書評をアップするのではなく、読み解いたプロセスをメモ代わりに保存しておく場所なので、その前提で読んでください。

第一部

何かを出版したら、その本はあなたの支配から逃げ出してしまうということです。出版した途端に、あなたのものではなくなるわけです。

いきなり引用するのがこれかよ、、と思った皆様、すみません。
でも、修論を書き上げた直後の人間には、(分かっていたこととはいえ)あらためてショックだったりするわけです。

つづく、、

ナショナリズムという概念は、ある意味で反動的で遅れたものであり、もはや研究する価値のないものとみなされるようになっていました。

なに?反動的で遅れたものは研究価値がない、とされていたのか。びっくり。今の価値観では、少なくとも「反動的」なものはその背景を徹底的に洗い出されなければならない、というのが普通と思うのだが。
ま、結果的に「ナショナリズム」は悲しいかな、現在「反動的」ではなくなってしまっているわけだけれど。

アメリカ合衆国は、アウトサイダーとして外から来た人間に対しては、もちろんものすごくナショナリスティックな対応をする国ですが、〜中略〜 自分たちのことを、少しもナショナリスト的だと考えていません。かれらは自分達を民主主義的だと考えています。そして民主主義は、普遍的で、ローカルなものではないというわけです。だから、かれらがナショナリズムを直接には経験することは、決してないのです。

この部分から改めて確認しておかなければならないこと。

という3点ですか。

ま、民主主義をやみくもに導入すればいいのかなんて、ナチスドイツの例やソヴィエト崩壊後のロシアの例を見れば、一目瞭然、と思うわけですが、、、。それだけ民主主義をうまく運用していくのは大変なんだということは、まず認識しておかないと。で、ウェブの世界に立ち戻ると集合知の功罪やレッシグの議論にぶち当たるわけで、、、

したがってかれらはナショナリズム以前に存在していた政治的な単位に愛着を感じていたのです。オーストリア=ハンガリー帝国、大英帝国などはその性格上、国民的でないと見なされました。一つの国民国家ではなかったというわけです。

だから当時のオーストリア=ハンガリー大英帝国が現在のオーストリア共和国ハンガリー共和国連合王国よりも“ユートピア”に近かったのか、というのは分からないところ。でも、こういうナイーブな捉え方は、感覚的に理解できてしまう私。
あ、今のチェコスロバキアはどうなっているんでしょうね、、、

理論的な書き物をする人は、ほとんどがある意味で、近代主義者です。〜中略〜 学者のあいだでは、こうした(ナショナリズムは近代の現象であるという)近代主義的な考え方が主流であるのに対し、世間一般では、(アンソニー・D)スミスのような(ナショナリズムは古代から既にあった単位が長い時間をかけて次第に発展してきたものだとする)考え方がいまだに圧倒的に優勢だということです。すなわち多くの人々が、いまだに、中国人は六〇〇〇年前から中国人であり続け、ベトナム人もまた同じくらい古くからそうであったとまじめに考えています。しかし学者のほとんどはそれを信じておりません。私自身も信じてはいません。

自分が理論的な文章を書いている、と自覚するなら自身は近代主義者なのでしょうか、そのクオリティはさておき、、、
ま、実際そうか、また周囲から認められるかはともかく、近代主義者であることを目指したいものですな。

あと、ここでいう学者のほとんどは極狭い範囲の社会学者であることは、『国家の品格』なんて本を学者が書いているところからして明らかなわけで、、、、

そもそも、あの本(『想像の共同体』)は、イギリスにおいて、ナショナリズムマルクス主義自由主義スターリン主義などの関する論争に介入する目的でかかれたものです。

これにはびっくり!

現在イギリスには知的な新聞は一子も残っていませんが、当時は確かに存在していたのです。

うーん、確かに学会出張でヨーロッパ域内線に乗ったとき、機内で配ってた英語新聞は

とものの見事にアメリカの新聞しかなかったもんね、、、、
で、WSJがNEWS Corpに買収され、、、世界的にクオリティペーパーってどんどんなくなり行くあるのでしょうか、、、

逆に雑誌ではTIME/LIFEなどをはじめとする高級誌的なものがどんどん廃刊になっているアメリカに対し、イギリスはThe Economistが健在という、まったく逆の現象が起こっているのは面白い限り。

ま、日本ではウェブでさんざ叩かれようとも、学者・文化人の寄稿記事の量をベースに考えると、結局(IHTの日本版発行元である)朝日新聞がだんとつのクオリティペーパーになるのでしょうね。っていうか、なぜか他の全国紙よりも日経の方が文化記事を含めクオリティが高いというのはいかがなものかと、、、、
そもそも、この基準の立て方自体がネットイナゴの皆様には許せないのかもしれませんが、、、、

更に脱線すると、個人的にはIHTはやっぱり昔から凄いと思っていて、今回始めて読んだFTは、意外に文化的な記事の質が高くてびっくり。WSJはあの伝統的な似顔絵がどうしても受け付けない上に、記事が即物的な経済ニュースばかりで辟易。ビジネスの現場にいたって、中長期的な見通しって絶対必要だから、こんな記事じゃ役立たず、、、とつい思ってしまった僕は読解力不足??

もっと脱線すると、日本の高級誌は

なんかがありますね。こういう雑誌がそれなりのポジション(ダカーポの上半期雑誌ランキングで上位独占、だったっけ?)を占めているから、朝日新聞があの中途半端マスマーケット狙いのポジションをとりつつ、(一応)国内トップ?のクオリティペーパーというポジションを(なぜか)保持できているのではないだろうか、、、、、

新聞といえばハーバマス、、という展開もできるのだけど、さすがに脱線はこれくらいにしておいて、、、

「この本で唯一評価できる点は、その人目を引くタイトルである」と。

タイトル、重要でしょう!!(笑)
ま、自分の論文もタイトル先行型なので、、、
セクシィかつキャッチーなものでないと。
あ、そういう点ではさおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学 (光文社新書) は偉大。素直に見習いたいものです。はい。

アメリカのような巨大な国民帝国は、つねに敵を必要とします。

巨大なところだけ、ではないですよね。
ま、(仮想)敵については、ちゃんと地政学的な観点からだけでなく(もちろん、これを無視した議論はお話にすらならないですが)、ミリタリーバランスなどもっとリアルな戦力分析・戦略分析をベースにした考察を加えないと。
例えば、某国の危険性は核攻撃よりも自壊した後の大量の難民流出、なんて判断もあるのかもしれないし。

幸運なことに、こうした時代は過ぎ去り、今ではみんなイスラムテロリズムという敵を持つことで満足しています。

うわっ、ブラックだぁ、、、。

それは次のような単純な批判に応えたものでした。〜中略〜 君は、ナショナリズムに対してあまりに同情的すぎる。

『想像の共同体』が未読の者にとっては衝撃の一文。そうなんですか??
読まなきゃ。