啓蒙の弁証法(2)I 啓蒙の概念 三
- 作者: ホルクハイマー,アドルノ,Max Horkheimer,Theodor W. Adorno,徳永恂
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2007/01/16
- メディア: 文庫
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人間のどんな態度表現のうちにも、〜中略〜至る所に神話を嗅ぎつける。
↓
あらゆる自然的な痕跡を、神話的なものとして方法論的に消し去ってしまった後、もはや身体でも血でも心でも、いやほとんど自然的な我でさえなくなってしまった自己は、超越論的、論理的な主観へと昇華され、行為に対する立法の法廷たる理性の基準となる。
ということは、つまり「日常を取り巻く全てのものから“神話”を取り去れば、論理的なものとなる。」ということで、
「論理的」な思考=「啓蒙」?
その逆の概念が以下のように列記されている。
衝動=迷信同様神話的=飲酒癖=錯乱=盲目的崇拝=直接的自然存在への没入=思索の自己忘却=快楽に我を忘れること
うーん、飲酒癖とか快楽に身を忘れるとか、私という存在はどうも啓蒙からは遠い存在らしい、、、、
啓蒙された思想はあらためてこの事態(諸個人の自己疎外)にも対処していく
えっ?確かにこの書の歴史的背景はマルクス主義批判であった(ような、、、)かもしれないが、あまりに唐突でないかい??
その後には「主観的」なものが、いかに排除されていったかが記され、「実証主義」が
理性そのものが、全てを包括する経済機構のたんなる補助手段になり下がった
と指摘する。しかし、“たんなる補助手段”がネガティブな意味を持つのかと思えば、
理性は、あらゆる他の道具を製作するのに適した普遍的道具として役立つ
目的の純粋な道具であろうとする理性の、古くからの野心はついに満たされた。論理的法則の排他性は、その機能のそういう一義性から、究極的には、由来する。
とポジティブなものだとして評価しているようにも思えるのだが、、、
二つの矛盾する命題のうち、一つだけが正しくもう一つは誤りでしかありえない、という原理のうちに反映している。こういう原理およびその展開形態としての全論理学を覆う形式主義は、諸個人の保持と個々人の保存とが偶然にしか一致しない社会において、様々の利害が見通しがたくもつれ合っていることに基づくのである。
と、世の現実に対処する必要悪のようにも読み取れる。
あぁ、、
更にわからないのが、
論理学から思考を追放することは、
えっ?どうやって論理学から思考を追放できるのですか?
思考を伴わない論理学ってどういうものですか?
もしくは、ここで「思考」という語が指している概念は、われわれが日常想定している「思考」と異なるものなのか?
といっているうちに、(性的)快楽に関する記述が出てくる。うーん、ここの部分がサドにつながっているのであろうか。
と思っていたら、
新しい民族や階層が、より決定的に神話を追放した時はいつでも、〜中略〜自然に対する恐怖心は、アニミズム的なたんなる迷信へと格下げされてしまい、人間の内なる自然とそとなる自然への支配こそが、絶対的な目的とされた。ついに自己保存が自動化されるに及んで、生産の管理者として理性の遺産を相続したものの、相続権を剥奪されたもの括[理性]を憚って、いまや理性に恐れを抱くようになった者たちの手によって、理性は解任される仕儀に立ち至る。
これって、人間が神話(的なるもの)を迷信として排除しようと思っても、いつのまにか神話が忍び寄ってくるという絶望的な状況を表しているのでしょうか、、、
啓蒙の本質は二者択一であり、
やっと啓蒙そのものに対する記述が出てきた。
しかし、啓蒙ってそんなシンプルな二元論なの??
で、一例として出されている二者択一は
- 自然の下へ従属する
- 自己の下へ自然を従属させる
なのだけど、前者はアニミズムのことだよな。後者は理性のことか?
そしてまた、先ほどの人間が神話を排除しようとしても、いつのまにか理性が追放され神話が舞い戻るという記述が繰り返される。
市民的な商品経済が拡まるにつれて、神話の暗い地平は、計画する理性の太陽によって照らし出される。その氷のような光線の下に、新しい野蛮の芽生えが育ってくる。支配の強制の下に、人間の労働は、昔から神話の外に連れ出されながらも、支配の下で、再び神話の圏内に引き込まれるのが常であった。
ここから『オデュッセイア』が事例として出される。
なぜ出されているかというと、
神話と支配と労働との絡み合った姿
の例としてである。が、、、、
- セイレーンたちの誘い:過ぎ去ったものの中へ自失することへの誘い
- 誘惑の的=オデュッセウス=刻苦して成熟を遂げ、彼自身の生と統一性、人格の同一性が鍛え上げられてきた。
って、あのオデュッセウスの行動や発言内容のどこが成熟した者がする内容なのか、私にはまったくもって理解できない。オデュッセウスを始め、登場人物(人間も神も)の言動は正直無軌道かつ世界は自分を中心に回っている的傲慢さを感じてならない。わたしが『オデュッセイア』を読んでいてなにが辛いって、そこのところがまず辛い。
で、アドルノの議論はこのように続いていく。
彼女たち(セイレーン)は、今過ぎ去ったばかりのことをじかに哀求することによって、時間一杯を生きるまでは誰にも引き返すことを許してくれない家父長制秩序を、約束の歌声でもって脅かす。普段の精神の現在によってのみ、自然を押し切って生き延びることが許されるところでは、彼女らの惑わしに乗せられる者は滅びる。セイレーンたちが過去の出来事の一切を知っているとすれば、彼女たちはその代価として未来を求める。よろこばしい帰郷の約束は、過ぎ去ったものが、憧れ寄る者たちを捉えるトリックなのだ。
家父長制秩序だと引き返すことができない、、、とはどういうことだ?
どちらかといえば、変わらない秩序が主従を入れ替えて延々ループしていくイメージがあるのだが。
ちなみにふるーい街、京都出身の立場から言わせてもらえれば、そういう古い体制を維持することに多大なエネルギーを注ぐ社会では、過去に目を向けるのはあたりまえで、家父長制において過去に目を向けると滅びるという記述はまったく合点がいかない。
自我が、つまり人間の自己同一的、目的思考的、男性的性格が、創り出されてくるまでには、人間は恐るべき試練に立ち向かわなければならなかった。
ま、男性的性格という今となってしまえば性差別的な表現はさておき、
自我=自己同一的
まではわかるが、=目的思考的 というのは理解不可能。
社会はいつもそのように配慮してきた。労働するものたちは、生き生きと脇目もふらずに前方を見つめ、傍らに何が起ころうとも構ってはならない。脇道に逸れようとする衝動を、彼らは歯を喰いしばって、いっそうの奮励努力へと昇華しなければならない。こうしてこそ彼らは実用に耐えるものとなる。
と思っていたら、突然21世紀のちょうど現在日本で問題視されている社会実態に程近い記述がでてくる。となれば、現代日本=家父長的社会=啓蒙されていない、ということなのか??
代理可能性ということが支配の尺度であり、もっとも多くの役柄において自分の代理をつとめさせうる者が最大の権力者であるとすれば、
最も多くの役柄において自分の代理を務めさせうる者が最大の権力者であるとすれば、
これはめずらしく、本当にわかりやすい一文。
で、
代理可能性は、進歩を推し進める車であるとともに、また退歩をもたらす車ともなる。
ま、そりゃそうね。で、結局。
上に立つ者たちは、自ら関わるには及ばない現存在をもはやたんなる基体として経験するに過ぎず、まったく命令を下すだけの「自己」へと凝固してしまう。
で、戻ってきた。しばらく「自己」って結構なキーワードなんだけど、そいつをどうアドルノが捉えているか読めない、、、、orz、、、、
ただ、進化が退化を導いてしまうというループ、パラドクスについては了解。
トップが
思考を組織と管理に限定する
ことが不可避である官僚制というか、組織の導入のメリット・デメリットというところか。いや、組織というよりも社会そのものか?
そのあと、管理者=支配者=経営者の反対の立場に立つ被支配者=労働者の置かれた立場「体制のための補充衛兵」=「失業者部隊として飼い殺し」の悲しさについて語っている。
で、最後に「社会主義と啓蒙とは両立しない」という意味の文章があるのだが、だめだ。理屈がわからない、、、、。